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つづるるる。

そのときハマった漫画や本についてあれこれ書いてます。

阿字野先生とパンさん

ピアノの森

阿字野先生とパンさんの関係は、どう決着がつくのかどうかとても気になってました。パンさんに肩入れしつつ見てしまうからか、なんだかせつなくて、押しかけ弟子!みたいなもにもなれず、ただひたすら、心の裡で先生のピアノを継承するって言ってて、それが唯一の自己肯定部分(にもなってはいないけれど)というのが、あのカイの演奏を聴いたあと満足そうに微笑む先生と、それを見てなんだかわからないけどくやしくなっちゃうパンさんのシーンを見ると、ほんと、なんともいえず…。パンさんは、ただずっと尊敬する恩人に、素敵なピアノだったと褒めてもらいたかったんだね。

そしてとうとう出会い対話した阿字野先生とパンさんのシーンで、ちょっと前ショパンの命日のときの雨宮パパと、ヒカルの碁を思い出してました。ヒカルの碁では登場する棋士たちが最善の一手の追求、神の一手への道を歩むということがくり返し描かれていて、いまの自分たちが生み出す一手は過去の棋士たちのたゆまぬ研鑽があったからこそと、そこに連綿とつづくその棋士たちの道の長さと情熱をひしひしと感じさせられたのですが、ピアノもまたそうなのかな…と、ふたりの会話を読みながら思いました。

囲碁と違って対戦する相手はいないピアノですが、ピアニストは自分の中にあるピアノの最良の音をいつも探しつづけ、それを追い求めているのなら、阿字野先生にとってのパンさんは、自分の求める音の道に道を繋げてやって来たひと、みたいな感覚なのかな…と。
そしてかなり妄想というか願望ですけど、阿字野先生はパンさんの中に自分が手を怪我し恋人を失ったことに勝るとも劣らない悲しみを感じてからは、先生の中でパンさんはもしかしたら「事故のあとピアニストとして存在した自分の姿」みたいに感じることがあったんではないかな…と思いました。
事故後、ピアニストでいられることはあり得ないですが、もしもあの悲しみを心に抱えた自分自身がピアノを弾けたとしたらこんな演奏をしたんじゃないかと、ほんの少し思ったんじゃないかなと思いました。
そして、そのことはそのこととして、自分と同じ音色を求める青年がその悲しみを乗り越えて成長したら、自分の求めていた音色の道がどんなふうに進んでいくのか、純粋に聴いてみたいと思ったのじゃないかなと、はじめてパンさんの演奏を聴いたあとの晴れやかな先生を見て思いました。

あの記事のせいで、多分自分とまったく関係ない人物としてパンさんのことは見ていられなくなったとは思いますが、実際に対話して、過去に深く傷つきいまもなお引きずっているパンさんに気づいた先生が、カイ同様、悲しみをも糧にした素晴らしいピアノを弾いてほしいと思ったから、恐れずに存分に弾いてほしいと言ったのかなーと…。
もうめちゃめちゃ妄想ですけど、求めるピアノの音色が近い先生には、もしかしたらうっすらと、断崖絶壁の上でピアノを引く心地が感じられていたんじゃないかなと、あの「恐れずに」ということばを聞いてわああああって頭がぐらぐらに回りました。
パンさんのファイナルの演奏時の先生も含め、師匠っぽいこと言ってくれて、ひたすらじーーんとしてしまいました。あと雨宮の先生のコメントも好きで、パンさん、いろんなひとに見守られてんじゃんよ…と、さらにじーーんとしてしまって…。
いい先生がいっぱいいるなあピアノの森…。

先生がこのさき手術で手を治して、自分自身の音色を再び追求しだしたら、それはやっぱりパンさんの奏でたものとは違う、先生だけの音色が生まれるんだろうなと思います。深い悲しみを経てカイと共に生きる喜びに目覚め、共に成長してきた月日が先生の音色を大きく変えるんだろうなと…。
こんなことを書いてて、自分だけのピアノの音色って難しいんだなと、というか、なんかだんだん書きたいことがまとまらなくて、なんだか頭のなかごっちゃごちゃになってきましたが、先生とパンさんに限らず、自分だけの音色というものは知らずに道を同じにしたりまた離れたり、ときに交差したりするのかも、と考えたりします。だれかの音色が誰かの感性を刺激し、そして新たな感動を生む、というショパンコンクール編を読むと、ピアニストは、音楽家は個性を持ちながらも音楽という大きな流れの中にともに流れているんじゃないかと感じさせられます。

なんかすごくまとまりがなくなってきましたけども、ようは大変楽しいということです!

 

ピアノの森(22) (モーニング KC)

ピアノの森(22) (モーニング KC)