つづる。

そのときハマった漫画や本についてあれこれ書いてます。

さらざんまい1~5話感想・欲望と希望と金の皿

2019年春は幾原監督の新作アニメが来る!!と楽しみに待ってましたら、気づいたらもう5話目で全11話だからあと6話しかない!と既に折り返し地点で驚いています。押忍。『さらざんまい』ざんまいです。久しぶりに雑誌を追ったりラジオを聴いたり公式ツイッターを追っかけたりと毎日脳みそが充実してます。というか2019は渡辺監督の『キャロル&チューズデイ』と秋くらいに赤根監督の新作の『星合の空』があって、一緒に墓に入れて欲しいアニメがウテナカウボーイビバップ天空のエスカフローネノエイン(あと監督関係ないですがビッグオー!)な自分には夢のような一年になりそうでわくわくしています、もといもう毎日楽しくてやばいです。今月はプロメア公開もあるし!キャロル&チューズデイはビバップと世界観同じで笑いました。結婚詐欺師のオッサンの声が響いてくるだけでもう。

と個人的に自分が子どもの頃に好きな作品をつくられた方々がいまもまた新しい作品を出されてくることがありがたくてしょうがないのですが、幾原監督の新作がユリ熊嵐から意外と早くお目見えということで嬉しいったらないです。楽しいです。決して明るい話ではないですが、いろんな隠喩やモチーフが散りばめられた世界でギャグとシリアスのはざまを行き来しながら、突然始まる歌を口ずさみながら毎週毎週イクニワールドへ連れて行かれる心地よさ。カッパだよということで今回は芥川かと河童を読み返し、エンディングやらインタビューやらでスタンドバイミーですと言われて観返して大人になってからも観て良かったと思ったり、ノベライズ版を読んだら星の王子さまが出たよ…サン・テグジュペリ…みたいな、幾原監督作品を観るとこういう脱線がどんどんしたくなるのが楽しいです。空き時間があったらOPのまっさらとカワウソイヤァ(2番のまがいもの~ぉおってところが特に好きです)を聴きながら読書です。はー楽しい。東京近くに住んでいたら6話の先行上映に行きたかったです。というかいまのアニメは先行上映なんてあるんだなとびっくりです。ネット配信もとてもありがたいな…と、充実ぶりに驚きます。

そんな『さらざんまい』ですが、今回のテーマは公式ツイッターアイコンにもあるように「欲望」と、もうひとつは「つながり」で、どちらもこれでもかというくらい作中でくり返されていて、特に「つながり」は毎回サブタイトルでどかんと出てくるのでインパクトがあります。ピンドラのときも好きでした、このED曲前にサブタイが出るの…運命の人、の回とか悲鳴を上げていた思い出です。
本作のサブタイトルはいまのところすべて「つながりたいけど~ない」で、もうこの部分を抜いただけでももの悲しいです。アニメのエピソードが挟まれると一層しんみりします。(唯一、3話はギャグっぽかったですが燕太くんのことを思うとやっぱり悲しい)

そのサブタイトルに表れているとおり、さらざんまいで描かれている「つながり」は、いまのところもの悲しいものが多いです。それは人と人が前向きな気持ちを伴ってつながり合うことの難しさや、つながっているからこそ辛いことが多いということの表れなのでしょうが、ただ最初、1話と2話を観終わった時にサブタイトルを読んでなんだか頭がうまく整理できませんでした。
1話目は「つながりたいけど、偽りたい」、2話目は「つながりたいけど、奪いたい」ということなんですが、どうにもサブタイトルと本編が噛み合わない感じが拭えませんでした。
さらざんまい効果でアイドルを真似て女装していた一稀くんなわけですが、漏洩後に好きでこんな恰好してるんじゃない!とキレてます。偽りたいわけではない。そして2話目でも地域猫ニャンタローは一稀くんがどこかの家から連れてきた猫ということが明らかになり、本人も悪いことだと認識し、秘密にしたがっていた事が明らかになります。積極的に猫を奪いたかったわけじゃなく、弟の春河ためだったと。一稀くんの暗い顔のままサブタイトルへ…2話とも「~したい」からしてる感じが全然ない。どちらかといえば本編の一稀くんは「偽ってでもつながりたい」「奪ってでもつながりたい」状態です。

その後ようやくスッと頭に入ってきたのが3話の「つながりたいけど、報われない」…燕太くんの妄想と現実のギャップにキス回がチューで終わるとコメディー的なオチまでついて報われなさが満載でした。つづく4話は一気に話が重くなりましたが「つながりたいけど、そばにいない」蕎麦と傍でかけてるのに雰囲気は3話とえらい違いでした…ちなみにさらざんまいは悠くんが好きです…。さらざんまいのうた、の悠くんパートも聴いていてしんみりします。自分のことをまるで子どもさと言うしかない子ども…。
そんな感じで3、4話と次々にキャラの背景が明らかになり、5話でもとうとう、女装をして弟とつながろうとする一稀くんの事情も明らかになるわけですが、加害者である自分は被害者である弟と「つながりたいけど、許されない」。ここでようやく一稀くんの感情に沿ったサブタイトルだ、と思ったと同時に1話と2話のサブタイに感じた違和感は、一稀くんが自分の欲望に沿って行動していないことによるもの、自分の欲望を自分で把握出来ていなかった(無意識の誤魔化しが入っていた)からじゃないか…と思えるようになりました。

5話まで観て1話からまた一稀くんの行動を振り返ると、素直な欲望を持つということが実はとても難しいことなのではないかと思わされます。作品のキャッチコピーにも「手放すな、欲望は君の命だ。」とありますが、人は「~したい」という小さな欲望から大きな欲望があるから動いていて、そして動くからには自分の感じる快適さだったり気持ちのいいほうに動きたいものですが、そういういいほうへの流れに乗れない欲望をいつのまにか持っていたりすることもあって、その欲望を突き詰めた結果、死に損になってしまったのがカパゾンビの一部…というように描かれているように思います。

カパゾンビの欲望の尻子玉をケッピに転送すると金の皿か銀の皿が出てきます。(ほんとこのチョコボールみたいな設定も楽しくて好きです。)皿は希望の皿で、金の皿は1枚で何でも願いを叶えてくれるそうですが(願いにぴったり沿うかは怪しいところですが)、金の希望の皿だったのは最初のハコ男だけです。それからは銀の皿がつづくわけですが、どうしてハコ男の欲望は金の希望の皿に変わったのか…。そのまんま考えると、ハコ男の欲望は大きな希望に変わったネコ&キス&ソバ湯男の欲望は小さな希望に変わったわけですが、この希望の大きさの差は元の欲望の持ち主にとっての希望の大きさの差だったのかなと思います。

ハコ男は全裸でハコを被ってるのがしあわせ~で最高~な人でした。部屋で服を脱いでそこにあるハコを被れば心底満たされてました。一方で、ネコ&キス&ソバ湯男の人たちは、カパゾンビとなって自分で言ってる欲望と尻子玉を抜かれたときのビジョンそのままではありませんでした。
ネコ男は猫になりたい→恋人と復縁したい(猫の恰好をしてるだけ)、キス男は世界中の女性に愛されたい→それよか体目的、ソバ湯男は常連の女性の残り湯でソバを茹でたい→常連の女性と懇ろになりたい…とズレてます。言ってしまうならスケールダウン。中学生のカッパトリオは言葉をそのまま受け止めて「そうか…!」なんて言うわけですが、自分の本当の欲望を叶えようとするでもなく、その手前くらいの本当の欲望っぽい欲望に手を出してたことが明るみにされてしまいます。言ってることと本当に望んでることが違うじゃん!欲望度合いも下がってるじゃん!ということを子どもの眼に晒されてしまう恥ずかしさが、あのカパゾンビたちの涙で前が見えないくらいの勢いに表れてるのかな…と思います。

ハコ男の欲望も他の3人同様、他人に知られると恥ずかしいことではありましたが、ハコと自分とで欲望は最大限叶うわけで、最高だなぁ…という気分を味わえます。そんな幸福感はイコール人生の希望になり得ると思います。でも他の3人は猫の皮を剥いで自分にくっつけて猫っぽい男になろうとも、大勢の女性とキスしようとも、盗んだソバ湯で念願のソバを茹でられたとしても、ハコ男のような心底最高だなぁ…という自分を照らす希望は手にすることは出来ません。本当の欲望が叶わない。手前に作った自分を慰めるだけの欲望が満たされるだけで、それは小さな希望にしかならない。

でも、小さな希望になるなら手前の欲望でもいいじゃないか…と思ったりもするのですが、ネコ&キス&ソバ湯男は半年前に一度逮捕されていて逮捕の半年後にゾンビになっているわけですが、その間、欲望は肥大するばかりで変わっていない姿が描かれています。半年経っても逮捕当時と欲望が変わってない=進歩が無くなっています。女性とよりを戻すのを諦めたりしない限り、本当の欲望と手前に作った欲望のギャップに悶々とすることになるわけで…カパゾンビを見ていると、なんとも言えない閉塞感を感じてきます。挙句、死に損だ~と空に昇ってしまうのがまた…。

欲望を持つことは自然なことですが、自分で自分を笑顔にするような欲望を持つことは難しい、ということを観ていて思います。作中ではカパゾンビが酷い目に遭っていますが、でも戦闘中にカパゾンビに向かって言い放つことがそのままブーメランになって一稀くんたちにぶっ刺さってるのを見ると、カパゾンビもカッパも立場は同じだということで、カッパ側も欲望を搾取される側に回るかもしれないということです。現に5話では一稀くんのかっぱらった尻子玉は戻ってしまい、欲望バトルに負けてしまいました。

一稀くんもまた、本当の欲望の手前に欲望を作っていました。大きな罪を犯したにも関わらず血のつながりもない家族に許されていることが許されず、耐えられず、それでもひとりきりでいることにも耐えられず、自分を偽って誰かから奪って春河とつながる。1話で情報漏洩した一稀くんは、事情を何も知らないくせに勝手なこと言うな、誰にどう思われてもいい、春河と自分だけのつながりだから関係ない、といったようなことを
言い放ちます。その気持ちが脆いものであったことが4話のラストで浮かび上がってきます。自分と兄の取り返しの付かない犯罪を知られた上で、悠くんは一稀くんとほとんど同じことを言います。誰にどう思われてもかまわない、兄のために生きていくから関係ない、と淡々と告げる悠くんは揺らいでませんでした。一稀くんは誰にどう思われてもいいと言いつつ外野の声にヒステリックになる時点で、自分の本当の欲望に沿わない欲望で動いている自分をどこかでわかっていたんじゃないか、などと思います。だからこそ、自分とほとんど同じことを言いながら自分と違って腹を括っている悠くんに自分の希望の皿を譲ろうとしたのでしょう。あの時点で、一稀くんの欲望は既にもろくなっていたんじゃないかと思いました。

作中、一稀くんと悠くんと燕太くんはお互いの持っている皿を譲ってくれと言います。お互いのことをよく知らないけど(燕太くんは一稀くんを知ってるけどその本音にかすりもしてないけど)とにかく欲望を手放してほしいと頼みますが、知らず知らずのうちに自分と他人の欲望を比べて自分の欲望のほうが叶ったほうがいいこと、上下を決めてしまうところも欲望というものの一側面なのかなと感じました。他人の欲望と自分の欲望を比べることというのはなかなか心を擦り減らしそうなことだなと。自分の欲望が自分の気持ちにぴたりと沿っている悠くんと燕太くんは誰にも譲る気はなく、自分の欲望が自分にマッチしてない一稀くんは自分の欲望より久慈の欲望のほうが叶えられたほうがいい、と思ってしまうあたり、欲望と欲望が並んだ時、勝つのは自分の欲望にとても素直な人なのかもしれないです。

ところで幾原監督は「カパゾンビの人たちはたまたま世の中からはぐれてしまった人」とインタビューの中で話されてましたが、どうしたらカパゾンビの人たちははぐれないで済んだのかな…と考えると、引き留めてくれるつながり、になるのかなと思いました。カワウソイヤァな警官のレオさん曰く「もろいつながり」ではありますが、ネコ男の人に慰めてくれる人がいたら、凶行に走る前の心を受け止める人がいたら、はぐれないで済んだのかなと思わずにはいられません。ハコ男の人も、ハコと自分で世界が完結していたとしたら、不当逮捕とはいかずとも何か大変なことがあったときに助けの手は差し伸べられないのかもしれません。

カパゾンビVSカッパは、いまのところ大切な人とのつながりを失った人VS大切な人とのつながりがある人の構図になっています。一稀には途切れかけていますが家族と、そして新しいつながりが生まれようとしています。悠くんはお兄さんと、燕太くんは一稀くんや家族、春河たちとつながってますが、欲望の内容がどうであれカパゾンビとカッパは同類という時点で、この先、カッパ側が大切な人とのつながりを失う展開も無きにしもあらず…というところが怖く…すっかり中学生トリオに肩入れ状態なのでつらいんですが、でも特に悠くんとお兄さんのつながりはとても危うい感じなので(監督曰く、カモメの手下は生きてるということで…)どうなってしまうのかハラハラするのですが、中学生トリオのつながりがこれからどのように広がっていくのか見守って行きたい気持ちです。OPの歌がテンション高くて、伸ばした手は空を切って落ちてないので、ハッピーなエンドを期待したいなと思うんですが、ほどほどにします…。

 ピングドラムでは「この世界は強欲な者だけにしか実りの果実を与えようとしない」という台詞があり、それをすべて否定する人々に闇がある、とも言っていました。さらざんまいでは強い欲を持つ者たちがどんな実りの果実を得るのか楽しみにしてます。

 

 

さらざんまい 公式スターティングガイド

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さらざんまい (上)

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さらざんまい 音楽集「皿ウンドトラック」

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